ついに50歳を迎えた。40にして惑わず、50にして天命を知ると言うが、振り返れば惑いっぱなしの40代だった。リウマチを抱えながら少年野球と草野球、PTA活動に明け暮れた日々。世紀を跨いだこの10年、長いようであっという間に過ぎ去った日々。少年野球のコーチとして初めて教えた子ども達はすでに成人し、その多くは家庭を持つに至った。しかしよく10年間もコーチとして過ごせたものだと思わず感慨深げになる。土日は練習試合や公式戦で家に居る事はほとんどなく、家庭サービス等とは無縁の世界にいた。一番迷惑を被ったのは次男だろう。小学校へ入学するなりいきなりオヤジの勝手でクラブに入部させられ、半強制的に野球漬けの毎日を課してしまった。しかし上手く指導出来なかった事に悔いだけが残っている。教え子達は100名を超えているが、硬式の球を手にした子ども達は自らの子ども達も含めて半数にも満たない。野球の醍醐味を伝授しきれなかったふがいなさが如実にそれを物語っている。指導部の一員としての反省点だ。その間淡路島からは数名プロに進んでるが僕の在籍したチームからは一人も輩出出来ていない。唯一次男の同級生がPL学園に進み見事にレギュラーの座を勝ち取り、昨夏大阪府大会の決勝まで駒を進めながら近大付属に敗れた。又もう一人は母校で兵庫県大会の決勝まで勝ち上がったが、これも加古川北高校に敗れ甲子園出場を逃している。一人はプロを目指し、そしてもう一人は体育教師を目指してそれぞれ大学に進んでいる。彼等の汗にまみれている姿がやけに眩しくて仕方がない。草野球にしてもしかり。ナイターリーグなるものがあり、夕食もそこそこに勇んでグラウンドに駆けつけた。当然年齢からして負担の多い外野は若手が担い、高齢者は内野に居座る事が出来た。しかしずるいものでゲームの決着が見えてくると闘争本能が目覚め、「さあ投げよか」と言ってマウンドに向かう。しかしキャッチャーから送られて来るサインはエースの時はストレート主体だが、僕が投げる時はカーブばかり。それだけ球威がない証拠だが、しかしあまりのスピード感の格差からか、それほど失点した記憶がない。すでに教え子達も社会人になり、共にマウンドに登った。そのほとんどがピッチャーをやりたくてうずうずしていたが、そこは彼等が遠慮してくれ快く「じゃあコーチどうぞ」とマウンドを 譲ってくれるが、あまりにも球速の無さに笑顔でバックを固めてくれていた。時には「コーチ先発しますか?」との声までくれたが、「いやサードでエエ」と逃げ腰の一手。本来ならショートが一番面白いのだが、体力が及ばないので若手に委ねる。ただ一つでも多く球に触りたいので無理矢理サードのポジションを奪っていた。リウマチで苦しんでいる今では考えられない事だ。そして子供3人が小中学生時、やたらとPTAの役職に就いていた。それを子ども達が快く思っていなかった事は後になって知るハメに。会長職のそのほとんどは輪番制だが、不思議な事に依頼が廻って来た。そして淡路PTA協議会なるものの副会長時代は壮絶だった。兵庫県PTAに籍をおいていたため、近畿ブロックや全国大会にまで参加する事となる。社団法人日本PTA協議会役員なる肩書きを貰い、東奔西走した1年間。翌年度の役員改選時、僕の分厚いファイルを見た次年度の会長候補が、辞意を表明し引き受け手がいなくなったのも事実だ。しかしこのPTA役員時代にWAVE復活の兆しが訪れる。子供達と一緒に合唱するためPTAバンドが結成され、長年手にしていなかった楽器に触れる。他のメンバーも同時期に同じようにPTA役員をしていたため必然的に再交流が始まる。それが下地となりWAVEが復活した。しかし入学式や卒業式で堅苦しい祝辞を述べていた我々が、ギターや キーボードを手にスポットライトを浴びるとは、当時誰もが想像していなかっただろう。不惑とは縁遠い40代、果たして50を迎えた今日どのような天命に導かれる事になるのだろうか?ミスタージャイアンツ長嶋茂雄が引退した10月14日。虎党の僕には村山実が公式戦ではなくオープン戦で引退したのが悔やまれる。
そして新薬エンブレルの投与は10月28日に決まった。