2009年11月09日

新薬エンブレル

enbreru.bmpついに新薬エンブレルの投与が始まった。4日に投与されたのだが、主治医から「投薬直後は副作用出ますからね」と念を押されていた。その言葉通り翌日から発熱と頭痛に襲われる。これまで様々な疾病と闘って来たが、不思議と頭痛だけは縁がなかった。例によってブログが更新されないため友人から「大丈夫か」との電話が入る。2日間は激痛だったが、やっと回復傾向が現れ始め、熱も下がり激痛も治まった。ただ少し頭にぼんやりとした違和感が残っている。これから一ヶ月毎週水曜日通院して投与する事となる。そして12月からは自分で注射を打たなくてはならない。自己注射には全く自信がなく徒歩5分の所に住んでいる同級生の看護師に投与を依頼した。快諾してくれたものの、おそらく厄介な頼みだと思っているだろう。東京医科歯科大学付属病院へ通ってから5ヶ月、投与に至るまでの道のりは長かった。
ke-shi.jpg一方で吉報も入って来た。大正ろまんすのサックスプレイヤーのひとみちゃんの姉「なおみ」が結婚する運びとなった。
服部緑地でのサポートキーボードが、その引き金になったのかどうか解らないが、14日披露の席に招かれた。当然サポートキーボーダーとしてだろう。しかし大正ろまんすのチームワークは抜群だ。同じサポートギタリスト、昭和ロックスの「けーし」、その人柄には魅了される。服部ではさあギターソロだと言う場面で、勢いよく前へ出て来たのは良かったのだが、無惨にもシールドが短かかったため、断線。会場は爆笑に包まれる。結線された頃には、すでにソロ終わり。あっきゃんが得意とするボリューム0奏法ならぬ、エアギターになってしまった。それがきっかけで親交が深まり、「けーし」は22日から23日の連休に釣り竿を持って我が家にやって来る。やはり淡路から出て演奏すると、様々な出会いに遭遇する。淡路で作られたサウンドを島外に発信する事は、極めて意義深い事だと感じる。そして島外の幾多のバンドのサウンドを吸収するのも大切だ。しかしWAVE本体の演奏活動の今後について疑問符がついた。そう遠くない日に決断を迫られるのは必至だが。レコーディングを控えているこの時期に試行錯誤しなければならないのは大いなる痛手だ。

新薬投与日、僕がベースを弾く転機となった九州の友人に12年ぶりに再会した。
「白髪増えたね」、再会の第一声がその言葉だった。
そしてTOYOTAがBMWと共に来期からF1撤退。
残念なニュースだ。
次男が学祭で、ストラトを持ちリードギターを担った。
悲喜こもごもの1週間。
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2009年11月02日

小林可夢偉

180px-Kamui_Kobayashi_2009_Motorsport_Japan.jpgF1の今シーズンが幕を閉じた。HONDAイズムの継承者、ブラウンGPが、コンストラスターズ・ドライバーズランキングの2冠を達成。圧倒的な強さを見せつけた。しかしラスト2戦、TOYOTAのレギュラードライバー、ティモ・グロックに変わり、急遽参戦した、TOYOTAの秘蔵っ子小林可夢偉の激走に胸が躍った。果敢に攻めるドライビング。2009年の覇者、ジェイソン・バトンをオーバー・テイクしている様は圧巻だった。残り15周までは3位をキープ、表彰台も夢ではないと解説の片山右京が熱っぽく語るも、ピットイン後のソフトタイヤの影響で終盤は思うようなハンドリングが出来ず、結局6位入賞に止まったが、終始アグレッシブな走行を見せるJAPANドライバーの奮闘は来シーズンに表彰台の夢を抱かせる。しかし今年のF1はまるで波乱まみれのレースだった。HONDAの撤退。それを継承したブラウンGPの圧勝。3強と言われていた、フェラーリ・マクラーレン・ウイリアムズの低迷。まさに戦国時代到来の予感。そしてレッドブルの躍進。来期は天才アイルトン・セナの甥も参戦する。唯一残念なのが中島Jrの成績だ。マシンに恵まれていないとは言え、ハンドリングのミスでリタイアの連発。レギレーションの変更に伴い、来期も混戦の予感が。

過去のHONDA黄金時代に変わってTOYOTA旋風をただ祈るばかり。
風雲児小林可夢偉の激走に期待するも、
果たしてレギュラー・ドライバーのシートを確保できるかどうか?
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2009年10月29日

THE Stylistics

THEStylistics.jpgサム・コーポレーション、CDのプレス会社だが、昔はレコーディングスタジオだった。1987年、僕たちはそのスタジオでLP盤を製作した。神戸市中央区上筒井通り、僕が入退院を繰り返していた神戸労災病院のすぐ真南にあったそのスタジオは一時期隆盛を極め、神戸・大阪・東京の三都市にスタジオを持ち、ロンドンにまで進出しサムソン・レーベルなるものを立ち上げUKサウンドの輸入まで行っていた。そしてレコーディングをきっかけに何故かその会社からジングルの製作を依頼されるようになる。そしてそのスタジオで新たな出会いが生まれる。神戸を拠点に活動していたBRAD JEMS。当時彼等はチキン・ジョージやバーボンハウスでLIVEを行い、脚光を浴びていた。リーダーのギター&ボーカルの松田仁氏は早稲田の軽音楽部で腕を磨き家業を継ぐため、神戸に戻り、高校時代の友人達とBRAD JEMSを結成、そしてWAVEとほぼ同時期にサム・コーポレーションでレコーディングを行う。サムの社長から偶然紹介され、その音源を聴かされた時の衝撃は未だに忘れられない。彼が書いている楽曲には僕には持ち合わせていない全く異質なものがあり、詞も当然都会的で、ある種のカルチャー・ショックだった。同じオリジナル楽曲でも、全く対局に位置しているように思え、又風貌も一目でミュージシャンと判別でき、一種のジェラシーめいたものを憶えたのも確かだ。そんな彼、松田氏から提案が成された。「僕が詞を書きますから、それに曲をつけて下さい、そしてそれぞれのバンドで演奏しましょう」と。その言葉を聞いてから数週間、まだFAXがそれほど普及していない時代に一通の封筒が送られて来た。そこには3曲の詞が書かれていた。タイトルは「サマー・タイム・メモリー」「DENGER LOVE」「LOVE GAME」。僕には決して書けそうもない言葉が並び、作曲の過程で凄まじいプレッシャーに押しつぶされそうになった。その詞を貰って以来数週間、当時自宅にあったスタジオに籠もり、ひたすら鍵盤を叩いて打ち込む。そして出来上がった音源にゆーさんのボーカルを差し込んで送り返す。そして2日後松田氏から電話が。そのコメントは「いいっすねェ、来月のバーボンのLIVEまでには間に合わせますから必ず観に来て下さいね」だった。しかし、結局はBRAD JEMSのLIVEを観る事はなく、どのようにアレンジされたかは未だに知らない。又うちのメンバーでさえ、僕が作詞したものと勘違いしている者もいる。しかし第三者が書いた詞に曲をつける程、苦しい事はない。僕の記憶が正しければ、再結成以前では平成元年のファイナル・コンサートでのみ演奏された筈だ。しかし再結成後は3曲ともステージで演奏されている。その作詞者である、松田仁氏、今は行方知れずで、著作権の問題もあり、レコーディング出来ずに困っている。

大正ろまんすのひとみちゃんからも詞を貰った。
早く書き上げたいのだが、駄作になるのが怖くて思い悩んでいる。
そして、厚遇して貰っているサムの社長から THE Stylisticsのコンサートチケットを貰った。
若かりし頃深夜ラジオから流れて来た「愛がすべて」。
「ソウル・トレイン」で観た記憶が。
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2009年10月28日

えがちゃん

egacyann.gif服部緑地LIVE、トリを飾った昭和ロックス。そのサウンドは圧巻だった。その感想を書き記し、ベースの江頭氏にメールを送っていたら返信が寄せられ思わず電話で1時間も熱く語り合ってしまう。ミュージックマンで堅実なベースを弾きこなす江頭氏こと、えがちゃん。4歳年下だがその人柄が素晴らしい。昭和ロックスは今、コンポーザーでもあるメインボーカルを病気で欠いている。そのためギターのけーし君やえがちゃん、そして酒癖の悪いドラムまでが、ボーカルをとっている。そのえがちゃんとの音楽談議、同じベーシストとしてベースとアンプの相性や、ギターの特性にまでついて語り合う。僕が「本番になるとついテンションが上がり、オブリをかまして、挙げ句に失敗して後悔するんですよ」と語ると彼は爽やかな声で「僕はその反対です、練習で色々試みるけど、本番では慎重なライン取りをしてしまいます」との事。スラップも僕はどちらかと言えばルイス・ジョンソンの派手目奏法に対して、えがちゃんはラリー・グラハムばりの、落ち着きのある奏法だ。彼は滋賀に住んでおり練習の際には大阪にまで通っていると言う。しかし、彼等のサウンドを聴けばその労苦も報われている。しっかりとしたリズムラインに支えられて二人のギターとキーボーダーが絶妙のパフォーマンスを見せている。そしてすべてがオリジナル。酒癖の悪いドラムが異様に噛みついてくる理由はそこだろうか。普段はおとなしいそうだが酒が入ると絡む酒癖を持っているドラムのたけちゃんには、極力呑ませないようえがちゃんも気を遣っているようだが。以前大正ろまんすのまっさんに電話している時、突然酩酊中のたけが電話に出て失言を連発した。僕は呑まないので至って冷静に応対したが、はっきり言って「どついたろか、テメエ」と思った位だ。もし彼がここを覗くと一戦交えそうだが、それはそれで仕方のない事だ。喧嘩を売ったのは向こうであり、こっちは受けて立つまでだ。えがちゃんもけーし君もよく我慢していると思うが、それはたけのドラミングが素晴らしいからにほかならないだろう。タムロールも心地良いほどのアクセントをつけている。ヘッドに触れているだけのようなピアニシモのローリング、かと思えば、スナップの効いたショットを放つ。喧嘩を売るだけのテクは持っている。しかし酒癖がね???酒の勢い借りて絡む輩はまったく怖くない。家内は僕の気性をよく知っているが、時折「お父さん、怖いものなしやろ、おかげでこっちが苦労させられるわ」と言う。高校入学時、後に「カスタード・パイ」と言うバンドで共に演奏する事になる一級上のボーカルに呼び出された。「お前何チャラチャラ・・・」憶えているのはそこまでだ。気がつけば血まみれのボーカルがヘタっていた。同級生がこれを読めばすぐ気づくが、そこへ漁師町出身の「チー坊」と言う友人が加勢に来たが、時すでに遅し。しかし「やー、なめとんのか!」と、とどめを刺す。ただ僕が怖いのは僕自身だ。喧嘩を売られると鳥肌が立つ。スイッチが入ってしまうと口より先に手が飛んでいる。ただ一度、「殺されるかも」と思った事がある。その筋の人と交戦状態になり、朝の7時に喫茶店に呼び出されてしまった。その時相手は「昨夜嫁を実家に帰してここに来たんじゃ、お前それだけの覚悟あるんか?」とさらしに巻いたドスをテーブルに置いた。「外、出よか」、そう言われた瞬間、相手の兄貴分が飛び込んで来た。友人が機転を効かせて連絡をとってくれていた。「こいつに手を出すな」、兄貴分のその一言ですべては収まったが、帰宅した途端オヤジに「相手みて喧嘩せい、○○○と喧嘩したら高くつくんじゃ」と怒鳴られる。実際高価な代償を余儀なくされた。しかし幼少期に「喧嘩に負けて帰って来たら飯食わせへんぞ」と育てられた筈だったのに。長男が幼少期、同じような事をした。近所の年上の子ども達と遊んでいたが、突然からかわれる状態になる。それを見ていた僕は長男に「どついてこい」と思いっきり背中を押した。長男は泣きながら年上の友人達の中へ飛び込んで行った。その狂乱ぶりに友人達は立ち去る。「それでええんや」と頭を撫でる。そんな育て方をしてしまったため、少年野球の全国大会の決勝戦、長男は頭にデッドボールを受けるとヘルメットを投げ出し投手に歩みよった。困惑した審判が長男を羽交い締めにする。プロ野球を観て育った長男の暴走、少年野球では決して許されられない行為だ。ベンチに戻された長男は怒りで顔を真っ赤にしていたが、当然の如く監督からの罵声が飛ぶ。そこに分け入って部長が「それ位の根性でエエんや」とフォローする。その部長こそ中学時代野球部のライバルチームの監督であり、今昵懇にしている同級生達の恩師「山本晋氏」だ。しかし少年野球で前代未聞の行為に試合は一時中断、お互いの監督が主審に呼ばれ、決勝戦という事で穏便に済まされ、悔しさを滲ませた長男は涙を流しながら1塁へ駈けて行った。時代は変わったかもしれないが、孫の孝太朗にもそんな気骨を持って欲しいと願うのは時代錯誤か??50にして尚血気盛ん、リウマチというのに馬鹿な自分だとつくずく思う。昭和ロックスのえがちゃんと話した事でたけの小バカにしたセリフが甦ってしまい全く脱線したブログになってしまった。えがちゃんとは昭和ロックス&大正ろまんす&WAVEで、茨木ジャックライオンでタイバンしようと約束した。

たけちゃんよう、しらふでサウンドバトルしようぜ!!
今日、大ヒットしている漫画「由良カラーズ」の作者と会った。
彼の父君とは昵懇にさせてもらっている。
その父君も昔はスイッチが入ると手が付けられない益荒男だった。

高校3年間、通い詰めた由良の町、
明け方に必ず通ったてんぷら屋。
その町を描いた漫画家と出会った夜。
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2009年10月26日

サポートキーボーディスト

taisyouroman.jpgサポートになりきれないサポートキーボーダーの2日間、ジョークで安請け合いしたキーボーダーとしての大正ろまんすへの参加が現実のものとなった。憔悴しきっていたビルボードライブの翌日、しっかりと寝込んでしまった。しかし、一通の封筒が重く僕の肩にのしかかっていた。大正ろまんすのドラム、谷口氏から送られてきた譜面と音源。しかし譜面は歌詞にコードを添付しただけの6曲分。音源はCDではなくライブ時に撮影されたDVCだった。何とか気力で立ち上がった火曜日、しかし、DVCを観ただけで6曲を記憶するのは到底無理だった。すぐさまベースの前ちゃんに連絡し、スコアをFAXして貰うも、前ちゃんは記憶だけで書いていたため、サイズが違っていた。自分なりに加筆修正して、水曜から練習を始めるも、リウマチで曲がったままの右手の小指が痛みで使えない。仕方なくダンパーを駆使して薬指で小指を代用する。しかし3日間で6曲は過酷だった。せいぜい弾けても1日2時間が限度。それを承知で土曜日門真へ向かう。12時から練習と聞いていた筈が、全員揃ったのは2時半過ぎ。土曜の夜はイタリアンレストランでライブが入っているため5時までの練習となる。しかし休符の間隔に微妙なズレを感じるも、それを引きずったままレストランライブに挑む。当然完璧に弾くことなど出来る筈もなく、ミストーンの連発。しかしメンバー達は快くそんな僕を受け入れてくれた。そして日曜日は昨年WAVEで参加した服部緑地でのライブ。当初は大正ろまんすの出番が終わったら即刻帰宅予定だったが、出場バンドのすべてのサウンドが気になり結局最後まで観覧する。特に僕と同じく大正ろまんすにサポートギタリストとして出演していたけーしーさん、そして茨木パッションライブを仕切ってくれていた江頭氏率いる昭和ロックスが最終の出番だったため、終演まで釘付けとなる。大正ろまんすでの演奏は痛みに耐えながらも、そして楽譜から迷子になりミストーンを連発するも、それなりに楽しむ事が出来た。スローバラードでは意図的にタメを作ってオブリを差し込む。オーディエンスがそれをどのように評価するかは問題ではなかった。自分自身の中でどれだけ楽曲に感情移入出来るかが今日の僕にとってのプレゼンスだった。当然ビート感のある曲では、空を見上げてみたり、椅子を蹴飛ばせて立って弾いてみたりしていた。どうしても高揚感が自分を抑える事が出来ない。ベースを弾いている自分と全く同じパフォーマーの僕がいた。性分とは死ぬまで変える事が出来ないものだと実感する。そして反面様々なバンドのサウンドを客観視する冷徹な自分がいた事も確かだ。テクニックは当然の事ながらパフォーマンスやMCにまで自然とチェックをしている。そして自分に欠落しているものを発見した時のショックは計り知れない。完璧なテクニック、完璧なパフォーマンスを持っていても観ている側には響かないバンドもある。サウンドは未熟でも何か底知れぬオーラを持ったバンドも存在する。そこに序列を付ける事が出来ないのが現実かもしれない。しかしコンテストでは審査員による評価と言うものが存在する事も確かなのだが。「音楽を楽しむこと」、それが原点なのは十二分に承知している。しかし、タイバンとなると必然的に闘争心が芽生えるのは仕方のない事のような気がする。今日の僕のプレイを見下しているプレイヤーも当然いる筈だ。それをいつかは見返してやろうとしている本能。競争原理の社会生活、音楽にしてもしかりだ。観客を前にした時点で必然的に評価が下されている現実。ましてタイバンとなるとそれぞれのバンドが否応なしに優劣をつけながら競っている。「今日はみんなで楽しみましょう」と主催者自らが言いながら「あのバンドイケルやん」と口走っている。おそらくその言葉が本音のすべてであり、楽器を手にした者の宿命なのだろう。

帰宅後、闘争心に火がついている僕に、初めてユニットを組んだ前ちゃんから労いの言葉を貰った。
「指が痛いのにあれだけ弾けたら上等やん」と。「アカン、協奏でなく競争やわ」と返答する。
ただ反骨心も擡げて思わず「僕は自分の書いた曲には誇りを持ってる」と吐露してしまう。
「そんなん、みんな解ってるわ」とのフォローを受ける。
しかし、まだまだ修練が足りないと痛切に感じた。

より多くのサウンドを体感する事の重大さを感じた2日間。
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2009年10月21日

懐かしい声

G.jpg無念の大阪予選敗退。多数駆けつけてくれた応援団に申し訳ない気持ちが高まる。グランプリバンドの演奏を聴いた途端、ユージと「負けたな」とうなずき合っていた。しかし、何事も経験、「旧ブルーノート」で演奏出来ただけでも満足しなくてはと慰める。一方で意外な出会いが合った。初代ピアニストの大学時代の友人が大阪予選にエントリーしていた。星山氏と言うが、突然彼から声をかけられる。「WAVEの谷さんですね」と。「入江君の友人です、キムラ緑子も含めてバンド演奏試みていました、淡路にも遊びに行きましたよ」と。しかし縁とは不思議なものだ。ライブの度に交流が深まってゆく。彼は以前からこのHPをチェックしていたようで、これまでのWAVEの足跡を熟知している。おそらく数日後にはBBSに書き込みが入るだろう。早速星山氏から初代ピアニストの入江洋介に連絡が入ったようで、今日突然洋介の懐かしい声を耳にした。彼は今東京で某メジャーアーティストの事務所に勤めている。そのアーティストがビッグネームなので多忙を極めているらしい。懐かしさのあまり彼が参加したライブのビデオを観てしまった。外連味なくグランドピアノとフェンダーローズの鍵盤を弾く洋介の勇姿。バンド結成の過程で頑なに僕はピアニストに拘った。サウンドの緻密さと醍醐味はピアニスト抜きには語れない。彼のプレイは「繊細にして大胆」。その音色は初期のサウンドのかなりのウエイトを支えている。コンポーザーとしても「WEEKEND FANTASY」なる作品を作曲している。思い起こせば僕が稚拙な弾き方をしていたフレーズをまるで違う楽曲のように弾きこなしていた洋介、幼少期からクラシックピアノを親から強制的に習得させられていたが、高校時代にロック&ポップスに目覚め、多用なサウンドを奏でる事となる。高校時代の放送部の後輩でもある彼の演奏力は是が非でも欲しかった。京都の大学に進学していたにもかかわらず練習のため帰省していた洋介は、オリジナルメンバーとして平成元年の解散まで、WAVEの鍵盤を担っていた。そして彼も又、このHPの存在を知っていた。彼とは「ゆず」のコンサートで会って以来、言葉も交わしていなかった。今日その洋介から労いの言葉を貰った。

年内に関西にやって来る洋介、再会が楽しみだ。
敗軍の将、兵を語らず。
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2009年10月14日

知天命

ronngo.jpgついに50歳を迎えた。40にして惑わず、50にして天命を知ると言うが、振り返れば惑いっぱなしの40代だった。リウマチを抱えながら少年野球と草野球、PTA活動に明け暮れた日々。世紀を跨いだこの10年、長いようであっという間に過ぎ去った日々。少年野球のコーチとして初めて教えた子ども達はすでに成人し、その多くは家庭を持つに至った。しかしよく10年間もコーチとして過ごせたものだと思わず感慨深げになる。土日は練習試合や公式戦で家に居る事はほとんどなく、家庭サービス等とは無縁の世界にいた。一番迷惑を被ったのは次男だろう。小学校へ入学するなりいきなりオヤジの勝手でクラブに入部させられ、半強制的に野球漬けの毎日を課してしまった。しかし上手く指導出来なかった事に悔いだけが残っている。教え子達は100名を超えているが、硬式の球を手にした子ども達は自らの子ども達も含めて半数にも満たない。野球の醍醐味を伝授しきれなかったふがいなさが如実にそれを物語っている。指導部の一員としての反省点だ。その間淡路島からは数名プロに進んでるが僕の在籍したチームからは一人も輩出出来ていない。唯一次男の同級生がPL学園に進み見事にレギュラーの座を勝ち取り、昨夏大阪府大会の決勝まで駒を進めながら近大付属に敗れた。又もう一人は母校で兵庫県大会の決勝まで勝ち上がったが、これも加古川北高校に敗れ甲子園出場を逃している。一人はプロを目指し、そしてもう一人は体育教師を目指してそれぞれ大学に進んでいる。彼等の汗にまみれている姿がやけに眩しくて仕方がない。
草野球にしてもしかり。ナイターリーグなるものがあり、夕食もそこそこに勇んでグラウンドに駆けつけた。当然年齢からして負担の多い外野は若手が担い、高齢者は内野に居座る事が出来た。しかしずるいものでゲームの決着が見えてくると闘争本能が目覚め、「さあ投げよか」と言ってマウンドに向かう。しかしキャッチャーから送られて来るサインはエースの時はストレート主体だが、僕が投げる時はカーブばかり。それだけ球威がない証拠だが、しかしあまりのスピード感の格差からか、それほど失点した記憶がない。すでに教え子達も社会人になり、共にマウンドに登った。そのほとんどがピッチャーをやりたくてうずうずしていたが、そこは彼等が遠慮してくれ快く「じゃあコーチどうぞ」とマウンドを 譲ってくれるが、あまりにも球速の無さに笑顔でバックを固めてくれていた。時には「コーチ先発しますか?」との声までくれたが、「いやサードでエエ」と逃げ腰の一手。本来ならショートが一番面白いのだが、体力が及ばないので若手に委ねる。ただ一つでも多く球に触りたいので無理矢理サードのポジションを奪っていた。リウマチで苦しんでいる今では考えられない事だ。
そして子供3人が小中学生時、やたらとPTAの役職に就いていた。それを子ども達が快く思っていなかった事は後になって知るハメに。会長職のそのほとんどは輪番制だが、不思議な事に依頼が廻って来た。そして淡路PTA協議会なるものの副会長時代は壮絶だった。兵庫県PTAに籍をおいていたため、近畿ブロックや全国大会にまで参加する事となる。社団法人日本PTA協議会役員なる肩書きを貰い、東奔西走した1年間。翌年度の役員改選時、僕の分厚いファイルを見た次年度の会長候補が、辞意を表明し引き受け手がいなくなったのも事実だ。しかしこのPTA役員時代にWAVE復活の兆しが訪れる。子供達と一緒に合唱するためPTAバンドが結成され、長年手にしていなかった楽器に触れる。他のメンバーも同時期に同じようにPTA役員をしていたため必然的に再交流が始まる。それが下地となりWAVEが復活した。しかし入学式や卒業式で堅苦しい祝辞を述べていた我々が、ギターや キーボードを手にスポットライトを浴びるとは、当時誰もが想像していなかっただろう。
不惑とは縁遠い40代、果たして50を迎えた今日どのような天命に導かれる事になるのだろうか?

ミスタージャイアンツ長嶋茂雄が引退した10月14日。
虎党の僕には村山実が公式戦ではなくオープン戦で引退したのが悔やまれる。
そして新薬エンブレルの投与は10月28日に決まった。
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2009年10月12日

内田康夫の神苦楽島

uchidayasuo.gif先日から気になっていたのだが、浅見光彦シリーズでベストセラー作家の地位を確立した「内田康夫氏」。その内田氏が今、週刊文春で連載している作品が「神苦楽島」。その舞台のひとつに淡路島が描写されている。そして淡路についての描写も驚くほど克明に記されている。おそらく起稿時以前には、淡路に足を運び、詳細な地理・風土・慣習について情報収集したものと思われる。その昔「横溝正史」が「悪魔が来たりて笛を吹く」の執筆にあたって、「淡路島」を訪れた回想録を読んだ事が、思い出された。通常、作家は、寄稿前に「概要」をしたため、執筆に取りかかる。その過程で内田氏が「淡路島」の現状を把握するため、おそらく淡路の地を踏みしめた可能性は、すこぶる高い。僕が初めて内田氏の作品を読んだのは詩人として名を馳せた「萩原朔太郎の亡霊」だった。萩原朔太郎の詩人としての評価は好悪二分されているが、僕にとっては、その破天荒な作風はたまらなく共感をおぼえ、「月に吠える」は愛読書の一つだ。その「萩原朔太郎」を幻想美の如く取り上げた内田康夫氏。その内田氏が新作「神苦楽島」で淡路島を取り上げている。脱稿はいつになるのか定かでないが、いずれ新書版として発刊されるだろう。

当分、週刊文春から目を離せない。
いずれにせよ、「淡路島」の知名度がアップされるのは間違いない。
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2009年10月10日

花嫁の父

hanayomenochichi.bmp明日、親友夫婦の娘が結婚する。僕は一足早く花婿の父になってしまったが、長男の披露宴での新郎新婦入場でいきなり感極まって嗚咽してしまった。僕は嫁を貰う側だったが親友夫婦は嫁に出す側だ。その心情は計り知れない思い入れがあるだろう。その親友だが、僕が33才の時、劇症肝炎を患って入退院を繰り返していた。その時突然電話が入り「今から行くぞ」との一言で自宅療養中の我が家に駆けつけてくれた、メロンを持参して。それ以降の17年間は家族ぐるみの付き合いをしている。先日は我が家の屋根裏探索にかこつけた大掃除を手伝ってくれた。その彼が明日花嫁の父となる。時折「お前の結婚式の時はどんな風な要領だった?」との電話が入っていた。今時の結婚式、我々の時とは様変わりしている。僕が経験した結婚式に臨むにあたっての要領をアドバイスする。もう数時間後に控えた結婚式、彼等夫婦の心中はおそらく複雑だろう。僕にも大切な娘がいるが、果たして彼女が「結婚したい」と言い出した時、どんな心境に陥るか想像も出来ない。長男の結婚式前夜、僕は中々入眠出来なかった。酒好きの彼の事だから、おそらく深酒して、心を鎮めているだろう。
娘を嫁に出す親友夫婦、二人の顔が浮かび何故か僕まで睡魔が襲ってこない。

ただ新郎新婦の幸せを祈るのみ。
僕の娘の時は、、、。
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2009年10月03日

聖地・円山音楽堂

naoyalive 004.JPG古都京都「音楽の聖地」円山音楽堂。今日その舞台に次男直也が立った。「jeugia第1回京都フォーク祭り」と銘打たれたコンサートは70〜80年代のフォークソングを奏でるイベントだった。朝10時からのブリーフィングで本人が気づいた事は、参加24バンド中最年少でのエントリーである事。京都は学生の街、昔から学生ミュージックが盛んで、ビッグネームを数多く輩出している。そして多くの名曲が円山音楽堂から世に出て行った。その名残を惜しむべく企画された今日のコンサートの演奏者の大半は40代から50代、楽曲も「かぐや姫」、「イルカ」、「アリス」、「シューベルツ」等々。「なぜそんなイベントに参加したの?」と問いただしてみると、通い慣れている楽器店jeugia北大路店から薦められたそうだ。そしてエントリーした名前が「あわじ」。受け取ったパンフレットを見て唖然とした。それもピンで「はっぴいえんど」の「風をあつめて」等2曲の弾き語り。闘病中の母と家内を伴ってその演奏を見守ったが、正直、「生きた心地」がしなかった。演奏後MCからコメントを求められる。「19才でなぜ、はっぴいえんどなんですか?」。その瞬間僕は思わず顔を伏せてしまった。「父の影響です、音楽に一生懸命なので僕の食生活は破壊されています、連日レタスばかり食べてます」、場内は爆笑の渦と化す。母がそのコメントを真に受けて「かわいそうに」と呟く。あげくに「今夜は寿司食べさせたる」と。ジョークを理解できない母、しかしその言葉は現実のものとなり、夕食は寿司屋行きとなった。参加24バンドの演奏後ゲストで登場したのは、「ばんばひろふみ」、「今日は皆さんの知ってる曲ばかりやります」と。「白い色は恋人の色」/「風」/「イムジン川」。持ち歌は「いちご白書をもう一度」と「サチコ」の2曲。そしてアンコールは出演者全員とのシングアウトで「あの素晴らしい愛をもう一度」。ばんばんと言えば一昨年のナイスミドル関西ブロックで審査員だった。そのばんばんと息子は競演してしまった。もう父親の出る幕ではないと痛感させられる。そして円山音楽堂では10日、「杉田二郎・南こうせつ・丸山圭子・山崎ハコ」等が出演する「みやこの華舞台コンサート」が開催される。息子に「一緒に行くか?」と問いかけると、「誰も知らんからエエわ」との返答が。「鈴木茂なら観に行くけど」とのおまけがついた。
後藤次利が鈴木茂のギタープレイを観て、その凄まじさにギタリストを断念せしめた名プレイヤー。
息子はその鈴木茂の影を追い求めている。

息子の存在が遠のいたように思った円山音楽堂。
naoyalive 010.JPG
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